忘れること・記憶すること

最近の私、すぐ忘れる。というか、人の名前(聖書の登場人物の名前も)が覚えられない。70代の両親に、「しっかりしてよ!」と言われてしまうほど。

すご~くショックを受けたことを思い返そうとして「あれ、何にショックを受けたんだっけ?」

夢で神様に語られて「覚えておかなきゃ!・・・って何だっけ? 」

今日は郵便を出そうとして、朝はポストの前を通り過ぎてしまったから、帰りこそ、出そう!と、駅のそばのポストを見て、あそこで投函しよう!と思ったのに、気づいたら、駅の改札を通ってホームに立っているのに気づいて、愕然とした。乗り換えの駅でポストを見つけて、やっと投函。

忘れっぽくなって感謝なことは、神様の助けが必要だと思うようになったことと、人の失敗に寛容になったことだ。忘れることは、一種の防御反応だなと思う。こだわる気持ちから解放された出来事もあるし、まだまだ取り扱われないといけないこともある。

ショックを受けたことを思い出したので、書いておく。

母くらいの世代のおばさまたちとの食事の席で、はしかの話になった。ある方が、「実は、長男と長女の間に、もうひとりいたの」と話し始めた、2番目の子を妊娠中(初期)に、はしかに感染して、子どもをあきらめたという話。その理由が、「耳の聞こえない子が生まれるかもしれないから」というので、私はその後、食欲がなくなってしまった。「その子が生まれていたら、長女はいなかったかもしれない」「3人兄弟になっていたかもね」なんて言って、話題は変わっていった。私が10代の頃から知っている人だけど、その話を聞くのは初めてで、私が耳の聞こえない人と結婚しているのを知ってるはずなんですけど、忘れちゃったのかなあ。それに、いきなり断ち切られてしまったいのちを思って、悲しかった。その日は買い物せずに帰宅して、神様にお祈りしていた。最初は自分の気持ちを吐き出すようなお祈りだったけれど、そのうちに、とりなしの祈りに変わっていって、神様の憐れみというか、神様が願っておられることを祈りたいという気持ちになっていった。それからしばらくして見た夢に、前述の方の長男と長女ともうひとり、顔は似ているけれど、ひょろっとした青白い子が出てきて、神様の御手の中にあるんだと思わされた。世の中では、お空にいる子が、下界を見ていて、このお母さんのところに行こうという話もあるけど、そういうのとは違う。

で、書いているうちに、ショックを受けたことをきっかけに、神様との個人面談?!に導かれていったことがわかる。

捜すのに時があり、失うのに時がある。保つのに時があり、投げ捨てるのに時がある。引き裂くのに時があり、縫い合わせるのに時がある。黙っているのに時があり、話をするのに時がある。A time to search and a time to give up, a time to keep and a time to throw away. A time to tear and a time to mend, a time to be silent and a time to speak. 伝道者の書3章より Ecclesiates chapter 3

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